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みなさんこんにちは。まずはブラジル日本人移民115周年追悼法要にあたり追悼の挨拶をいたします。

本日この移民追悼法要:「ブラジルへ移住した日本人を偲ぶ会」に出席された皆様。私たちは勇気と決断力をもって遠い祖国を離れ、この国で新しい生活を築こうと未知の世界へ挑み努力された人々へ謹んで追悼するものであります。私たちは、彼らの功績を学び後世へ伝え続けることによって、先人たちに敬意を表します。彼らが私たちの心に残した「謙虚、忍耐、勤勉、協調性」といった種を育て、次世代のために明るい未来を築くことができますように。私たちは深く感謝します。

それでは浄土真宗のみ教えのお話をしていきたいと思います。

今日はこちらは浄土真宗本願寺派の前勧学寮頭の徳永先生のお話を紹介させて頂きます。勧学寮とはご門主の書かれる書物の内容が教義的に正しいか等を判断する機関で、宗派内の宗教的な研究機関で最も権威のある方たちの集まりです。

勧学の先生の話と言うととても難しいと思う人もいるかも知れませんが、徳永先生のお話はいつもとても優しくわかりやすく素晴らしい内容です。では、さっそく紹介しましょう。この話はその徳永先生のお宅での出来事です。

京都の批宅の庭に池があり、そこにニ十尾ほどの錦鯉がおります。毎年初夏のころ、鯉たちはたくさんの卵を産みますが、たいていは卵のうちか稚魚のうちに他の鯉たちに食べられてしまい、秋になって池の草の陰や岩の陰から顔を覗かせるのはほんの二・三尾にすぎません。何百あるいは何千と生まれたに違いない卵や稚魚のほとんどが食べられてしまうなんて、あまりにも可哀そうだと誰でも思うでしょう。

そこで、今年は卵の産みつけられた棕櫚の皮ごとすくいとって、別の水槽に移してやったのです。余計なことをして、環境の変化のせいで全滅しはしないかとびくびくしながらそうしたのでした。ところが、何日か経ったある夜、懐中電灯で照らして水槽を覗き込んだ私は仰天してしまいました。全滅するどころか、なんと何百とも知れないニミリほどの稚魚たちがうじゃうじゃと孵化していたのです。自然の育む命の不思議さに茫然とする思いでした。

しばらくすると稚魚たちは成長して、その水槽では狭すぎるほどになりましたが、まだ元の池に放すわけにはいきません。たちまち成魚たちに食べられてしまうでしょう。そこで、大きなプラスチックの池に放してやりました。ついニ・三日前のことです。稚魚たちにも生存能力の強弱があるらしく、大小さまざまの成長過程を見せていますが、今のところみんな元気に泳いでおります。

私がここで申し上げたいのは、放っておけば他の鯉たちに食べられて消えてしまう何百という稚魚たちの命を救ったということではありません。今の私の思いはむしろそれとは逆のことであって、余計なことをしてしまったのではないかということなのです。つまり、もしも私がこれらの稚魚たちが他の成魚たちに食べられないほどにまで成長するのを待って、元の池に戻してやるとすれば、何百という新入りの鯉たちのために、池の生態系はたちまち破壊されてしまうでしょう。今のニ十尾ほどの鯉たちに加えて何百尾もの鯉を移せば、おそらく元からいた鯉たちともども全滅してしまうでしょう。

放っておけば消えてしまうに違いない何百の稚魚の命を救ったつもりになっていた私の善意は、ここにきてたちまち破綻をきたすことになってしまったのです。よかれと思ってしたはずの私の行為は、自然の法則からすればあまっちょろいヒューマニズムにすぎなかったのかもしれません。

要するに、稚魚たちに対して私が抱いた愛情はほんの一面的なものであってそこに影が伴うということに気がつかなかったということです。私の庭の池にも自然の法則がはたらいていて、私の行為はいかに善意から出たものであるにせよ、その自然の法則を無視するものだったのです。

このような経験から、不可思議の本願のはたらきに自分の思いを上乗せしてそこに救いを予想している私どもの浅薄な計算が無効であることを示してくださった親鸞聖人の真意がうかがわれたのです。

こんな自分に救いが得られるはずがないとか、これだけ聴聞し念仏したのだから往生は大丈夫だろうとか、自分勝手な計算に救いを予定していても、そこには必ず影が伴っていることを聖人はいましめてくださったのだと思います。得になるとか損になるとかというような私の思いをすべて超えて、本願の大悲は影のない、つまり計算のない光明をもって、この私に届いているということでありましょう。

私たちがどんなに良いことだと思って行動しても、それが「必ずしも全ての面から見て良い事とは言えない」ことを、先生の体験をもとにお話ししてくださいました。物事を偏った視点から見るのではなく、あらゆる面から冷静に物事を見つめてその本質を理解するというのが仏教の根本思想です。そのために開祖お釈迦様はたくさんのお経に教えを残されました。その中で浄土真宗という私たちのお寺が属する宗派では、宗祖親鸞聖人の生き方を通して物事の本質を理解することを大切にしています。そこには「因果の道理」というものがあり「結果には必ず原因がある」ということを冷静に見つめます。

つまり、根拠のない祈祷や占いを頼りとしません。また、自らの都合や不都合を神や精霊の責任に押し付けません。それらに基づいてあるがままの世界のあり様に寄り添って生きていくのが浄土真宗の精神であり、みなさんのご先祖様が代々受け継ぎながらこの南米の地へ携えてきた「門徒の誇り」なのです。このお話を一緒に頂くことで現代社会に生きる私たちも色々考えさせるきっかけになればと思います。

それにしてもこのお話に出てくる鯉たちはどうなったのでしょうか?ある時徳永先生に直接お会いさせて頂いた時に、「何か質問はありますか?」と言われたので講義内容とは関係なかったのですが質問させて頂きました。

夜中に市内の鴨川と言う大きな川に放流されたそうです。いい事なのか悪い事なのかはわかりませんが。。もし悪いことだったら、浄土真宗の高僧により京都の生態系に影響が与えられたことになり宗派の沽券に関わることなので、ぜひとも秘密にしておいてください。以上で法話を終わりとします。