みなさんこんにちは。本日はお寺がこの場所で新しく歩みを始めたことを記念する法要です。ですので今日は人間として生まれてきたことについて新しく振り返るお話をしてみようと思います。
私たちの命は知らない間にこの世に生まれました。「人間に生まれたい」と思って、生まれた人はいないとおもいます。体が先にあって、性格とか知識とかいうものは、あとからその体に入っていきます。もっと専門的に言うと人の能力と性格は遺伝子によって30%ほど決まるそうです。残りの70%はその後の環境と関わりによって形成されていくそうです。それが教育であったり、生活環境であるというわけです。
それがよくわかるのが動物に育てられた子供の話です。昔インドでオオカミに育てられた少年が発見されました。この少年は、産まれてすぐに、メス・オオカミによって連れ去られ、大きくなるまでオオカミによって育てられました。この少年は、人間社会へ連れ戻されたが、四本足で歩き、オオカミの吠え声で話をするやり方を変えることはできなかったそうです。つまり、遺伝子は人間だけど、70%の部分に「オオカミの習性」というものがはいってしまったということです。逆に生まれた時から人間に育てられた犬が、人間のように2本足で歩いて、言葉を使うということは聞いたことがありません。
人というのは、育てられ方によって、人間にもなればオオカミにもなるということです。人間とは人の間と書きます。間というのは関係を表す漢字です。つまり人として生まれ、他との関係があって初めて人間となるということでしょう。
ではその人間として生きていくとはどういうことなのでしょうか。こんな言葉があります。「犬が犬らしくないことをやることはほとんどないが、人間はよく人間らしくないことをやる。甘いものを見つけた蟻は必ず巣に持ち帰るが、人間はこっそりひとりで食べようとする。」
感心させられると同時に考えさせられる言葉です。人間らしいとはどういうことでしょうか。たとえばご飯のときに、皿をなめると、犬みたいだと怒られます。ではお箸を使って、またナイフやフォークを使って食べることが人間らしいということでしょうか?でも世界には、手だけを使って食べる国もたくさんあります。「甘いものを見つけたときに一人でこっそりと食べる姿」これがもしかしたら一番人間らしい姿なのかもしれません。欲望に正直に、自分中心に生きている姿であります。でも私たちはそれが人間らしいとは言いません。そういう人のことを「ずるい」といいます。私たちが人間らしく生きるという言うときに感じるのは『恥』というものを知っているかどうかではないでしょうか。
人間の本質を言えば、自分中心に、自分の欲望を満たしたい、自分だけが良かったら良いという気持ちを持っているものだと思います。ですがそれと同時に、欲望のままに生きるのは恥ずかしいことだというのも知っています。だから欲望を抑えて、他人のことも考えて生きる姿を「人間らしい」と感じるのではないでしょうか。仏教ではその恥ずかしいということを「慚愧」といいます。親鸞聖人は、「慚愧」について3つに分けて説かれました。一つには自ら罪を作らないことと他人に罪を作らせないこと。二つには自分自身を恥ず心を持ち、他人に対してそれをあらわすこと。三つには世間に対して、そして仏様に対し恥ずかしいという心。この慚愧のこころあるものを「人」といわれ、慚愧の心ないものは「畜生」といわれました。つまり、自分に対し、他人に対し、仏に対して「恥ずかしい」と思う心をもって初めて「人間」だと言われるのです。そしてそうした心を持つ人こそが「人間」を育てることができるのでしょう。ですが、私たちが頑張って自分の力でなれるのは、「人間」までです。
「人に育てられ 人になり、 仏に願われて 仏になる」という言葉があります。私たちの命は、阿弥陀様に「仏になってください」と願われている命であります。そして阿弥陀様は、その願い、働き、功徳すべてを「南無阿弥陀仏」のお念仏に込めて私に届けてくださいました。仏法を聞くということは、阿弥陀様に育てられているということです。手を合わせるということは、自分の姿を、振りかえられる場所があるということです。人間というのは、他人の前ではなかなか自分自身を振り返ることができません。夫婦喧嘩なんかが良い例えだと思います。喧嘩をしながら悪いとは思っていてもなかなか素直に謝れないのが人間です。でもそんな私たちも、なぜだかわかりませんが、仏様の前に座った時は、素直に自分のことを反省することができます。自分の姿がよく見えてきます。相手のせいにしている自分がよく見えてきます。生活の中に、仏様に手を合わせるという時間をもつことは、自己をかえりみる時間を持つということでもあります。自己をかえりみるということは、ただ反省するだけではありません。よかったことも、わるかったことも、嬉しいことも、悲しいこともすべてをふりかえるということです。
なかなか、仕事・勉強・遊びに忙しい毎日ですが、時間を作って仏様に手を合わす日暮らしをしましょう。