皆さんこんにちは。今日は日本のお盆法要ということで追悼法要をしました。
「追悼法要」とはこれまでも世界各地で行われてきていると思いますが、今日は仏教での意味をお話ししたいと思います。
私たちが住む世界を表す言葉に宇宙という言葉があります。「宙」という字に広い空間という意味で「そら」と読ませることが多々あります。
しかし二千年近く昔の中国大陸にあった前漢の国の書物『淮南子(えなんじ)』に「往古来今これ宙という、四方上下これ宇という」とあります。つまり空を表すのは「宇」の方だったのです。面白いことに宙の字の方が空間を表しているかのように誤解されることが多くなってきました。誤用も時代と共に正しい言葉となったりもしますが正確な意味も知っておくことは大切でしょう。
現在の日本では私たちが思う「宇宙」とは星々の浮かぶ空間の意が主ですが、遥か昔の人間は私たちが暮らす世界は時間と空間を一体としてとらえていました。少なくとも世界を過去と未来に挟まれた現在という点で切り取られた「今」を中心としては見ずに、過去と未来の通過点としてとらえていました。だからこそ先祖という過去の出発点を大切にし、未来という子孫をつなぐ「家族」というものを大切にしていたのです。私という命は有限で終わりのあるものであるけど、「~家」とは各時代に構成員を変えて存在し続けさらに同一の家なのです。その意味で追悼法要というのは生きているものが死者を祭るだけでなく、世界のあり方に歴史の一員として敬意を表する大切なものでした。
では、まずご存知の方も多いと思いますがお盆の起源にさかのぼりましょう。
当時、目犍連というお釈迦様の弟子がいました。時空を見通す特殊能力の持ち主でしたが悟りの世界(=真理)を見れなかったために仏弟子となった者です。
彼がある時亡くなった母を探し求めると餓鬼の世界という餓えと欲望にとらわれ永遠に満足することができない世界で苦しんでいる姿が見えました。
それを嘆いた目犍連は母が餓鬼界にいる理由と救済方法をお釈迦様へたずねました。お釈迦様はあなたの母が餓鬼界にいるのは生前に子供であるあなたを心配するあまり執拗に食べ物を集めすぎたことが原因だといわれました。物の少ない時代に誰かが過剰に食物を確保することは他者の分まで独占してしまうことを意味します。本来平等に分けなければならないという調和を著しく乱したことになります。
救済方法としては母に心配されたあなたが食物を他者へ寄付することだと言われました。財物にとらわれずに他者と分け合うことが過度な物欲をもたずに生きる方法であることを説かれています。その功徳によって母は成仏できたと伝えられています。
本来は独占や物欲を戒める説話だったのですが、亡くなった母に対する子供の追悼の思いからいつしか死者の供養に関する習慣になりました。
日本語において「追悼」という言葉には、誰かの死にあたってその方の生前の姿を振り返りながらその死を悲しむこと、という意味が一般的です。その主な内容には「死んだ人を憐れむ気持ち」が強いと思います。しかし命の有る人と無い人という区切りを設けて命の無い側を一歩的に可哀そうな人と決めつけてしまうのは少し乱暴なことではないでしょうか?
もちろん私たち生きる者にとって命ほど大切なものはなく生きているに越したことはないというのも重要な事実です。だからと言って生きてさえいれば幸せであるかといえばそれも答えは難しいでしょう。先月の仏教青年会大会での講師の僧侶と参加者の青年たちの対話の中では「よりよく生きるために仏教から何が得られるのか?」といったことが多く話題にのぼったそうです。
未来ある青年ならではの疑問だと思いますが生きているということにも悩みや苦しみは多く付きまといます。それこそ時には死んでしまいたくなる時というものも人生には存在し、残念なことに自ら命を絶ってしまうといったことも数ある死因の中では決して少なくありません。
私たちが行う追悼という行為には「可哀そうと思う心」を切り離すことは難しいと思います。しかし私たちが感じる「可哀そうと思う心」の真実に私たちはしっかり向き合う必要があると思います。可哀そうと思う心の向けられている先にあるものは、失われた命ではなく大切な人を失った「私自身が感じる寂しさ」なのです。つまり、可哀そうなのは「悲しさを感じている」私ということになります。
悲しみの大きさはそのまま頂いた幸せの量でもあり、追悼の心はそのまま感謝の心になっていきます。追悼とは亡くなった人を憐れみ手を差し伸べながらも、胸に思い描く故人の生前の姿に私たちが慰められ癒されることを言います。目連の話に見るように亡くなった母を思うことで自らの癒しとすることにほかなりません。「死してなお人を癒す者」を私たちは仏と呼びます。追悼とは仏の癒しをわが身に頂く日であります。人生の出会いやすべての存在そのものへの深い感謝の心をもちながら生きていくことは仏様と共に歩むことを意味します。より良い人生への指針となります。