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あなたは一体どんな人ですか?その答えは、鏡をそっと覗き込めばすぐにわかります。なぜなら、人間の内面にあるすべては、その表情のなかにありのままに映し出されているからです。同じように、私たちの身体に現れる日々の自覚症状はこれまでの生活習慣の積み重ねを静かに表し、ふとした意図しない仕草のなかに、その人のこころのゆとりや有り様が見えてくるものです。

今、幸福を感じて人生を歩んでいる人は、日々の挨拶や交わす笑顔のなかに、本当に素晴らしい輝きを湛えた表情が出ます。その反面、こころが不幸に囚われてしまっている人は、元気な挨拶を交わすことも、内面から輝くような笑顔を浮かべることも、どうしても難しくなってしまうものなのです。私たちは決して人を見た目だけで判断してはいけませんが、その人の外見や佇まいから読み取れる内面の情報というものは、決して侮ることはできません。見た目が周囲に与える、そして自分自身に与える影響というものは、本当に途つもなく大きいのです。

古くから賢者(さとりを開いた方々)と言われる人たちは、そのように表に現れている部分から、目には見えない人間の深い内面や本質を、鋭く見通してきた人たちのことでした。もし、自分の姿が他人に影響を与えるのだとしたら、それと同じくらい、自分の姿は「自分自身のこころ」にも大きな影響を与えているのです。もし自信を失いそうになったなら、まずはすっと姿勢を正してみましょう。気持ちが深く落ち込んでしまったときこそ、鏡に向かってそっと笑ってみてください。幸せになりたければ、まず自分から明るく挨拶を交わしてみるのです。たとえ最初は嘘や形だけでも構いませんから、まずは笑顔を浮かべてみましょう。

それによって、あなたが今抱えている問題がすぐに解決するわけではないかもしれません。しかし、あなたのその健気な笑顔によって、周りにいる誰かの重苦しいこころが、ふっと救われるかもしれないのです。自分の幸せをただ追い求めるのではなく、時にそれを横に置いてでも、他人に笑顔や幸せを分かち合える人になることは、決して無駄なことでも、損をすることでもありません。自分だけが損をしているなどとは、どうか思わないでくださいね。古い言葉に「誰も見ていなくても、誰かが必ず見ていてくれている」という真実があります。それは、地域や文化によって「神様」と呼ばれたり、あるいは「仏様」と呼ばれたりしてきました。また、それを大自然の太陽になぞらえて、世界を等しく明るく照らす太陽に深く感謝を捧げた人々もいます。本当のところは、誰にも形としては見えないのかもしれませんが、私たち浄土真宗の伝統では、その大いなる存在を「仏様(阿弥陀如来)」とお呼びするのです。世のため人のために、どんな時も笑顔を絶やさずに生きようとするあなたの姿を、常に真正面からしっかりと見つめ、優しく褒め称えてくださる存在こそが、仏様なのです。

私たちは誰もが、常に幸せでありたいと願っています。しかし、人生のなかで常に幸せな状態のままで居続けることは、非常に難しいことです。なぜなら、この世のすべては常に移り変わり、変化し続けている(諸行無常)からです。ですから、自分の幸せに執着する代わりに、ただ周りにいるすべての人々の幸せを純粋に願い続けましょう。すべての人がそのように他者を想うこころを持てたとき、それは巡り巡って、世界中のすべての人が「あなたの幸せ」を心から願ってくれることと同じ意味になるのです。仏教では、この自他を超えた大いなる慈しみを「慈悲のこころ」と呼びます。そしてこれこそが、仏様のこころのすべてなのです。今日、この場所に集まられた皆様の多くは、先立っていかれた大切なご家族のお浄土での幸せを願い、祈りを捧げに来られたことと思います。どうか、その愛する人を想う尊いお気持ちを通して、仏様の温かな慈悲のみこころをその身にそっと授かっていただきたいと切に願っております。なんまんだぶ。