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今日は、浄土真宗で一番大事な報恩講で、宗祖の親鸞聖人や、私たちの大切なご先祖様のお勤めをしました。報恩講というのは、「感謝する人たちが集まる」という意味の名前です。皆さん、「お寺にお参りするって、いったい何の意味があるんだろう?」と、不安に思うことがあるでしょう。今日は、皆さんのその行動が、これから先の未来の世界にとって、どれほど大きな意味を持つのかをお話しします。

まず、報恩講の始まり、親鸞聖人が何をしたかを少し見てみましょう。聖人が宗派を興し、代々の住職たちが法事の形を整えた行為は、「どんな人でも必ず救われる仕組みを、ずっと未来まで残そう」という、深い思いやりでした。報恩講というのは、浄土真宗での「法事」の始まりであり、親鸞聖人が未来の世界の全ての人に「大丈夫ですよ」という安心を届けようとした、大きな思いやりなんですね。

私たちの仏様である阿弥陀仏は、世界で初めて、自分のためではなく、他の人の往生だけを願われた仏様です。その阿弥陀仏の力というのは、「人々を結び付ける、尊い見えない力」そのものです。お寺の行事で、皆さんに助け合いの思いが生まれるのも、仏様の慈悲のあらわれで、慈悲のこころはすでに私たちの周りに満ち溢れています。親鸞聖人は、この阿弥陀仏の思いを、「おしえ」という具体的な形で世の中に伝えてくれた人です。ですから、報恩というのは、法事を通して、阿弥陀仏の大きな慈悲に触れることなんです。

では、この報恩の行動と、亡き人を思う気持ちが、どう繋がっていくのでしょうか。ここで、「私という存在」について、少し考えてみましょう。「今、ここにいる私」というのは、「もうこの世にはいないご先祖様」と、「まだ生まれない未来の命」という、どちらも今、目には見えない人たちが、この瞬間に同時に存在できる、特別な場所なんんですね。

親鸞聖人が私たち「後の世界に生きるもの」に「南無阿弥陀仏と称えなさい」と残してくれた真の意味は、「自分さえ救われればいい」というだけではありません。皆さんが今日、お参りするその姿は、亡きご先祖様から未来の子孫まで、全ての人々の「安心」となることを意味しています。全てはばらばらではなく繋がっています。皆さんの参拝は、亡き人だけでなく、未来の世界の全ての人を救うことにつながるとても尊い行為です。仏さまとは私の周りにいるすべてのものひとつながりの大切なものだと思う人に見えてくる存在なのです。皆さんの参拝は、素晴らしいことであり、亡き人だけでなく、まだ見ぬ次の世代すべてが「仏様」としてつながっていることを教えてくれた親鸞聖人への、大きな感謝の気持ちとなるのです。