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皆さま、明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、こうして皆さまと集える時間に、大きな喜びを感じております。私たちは新年の誓いを立て、未来に希望を抱きますが、その心の底には、形にできないもやもやがあるはずです。それは、いつか自分がこの世界から消え、誰の記憶からも失われていくことへの、寂しさです。

ブラジルの埋葬の場を思い浮かべてみてください。私はブラジルに来てからもう何百件もの葬儀の別れの場に立ち会いました。多くの参列者に別れの涙は熱く流されますが、ひとたび儀式が終われば、世界は何事もなかったかのように日常へと戻っていきます。残された人々がそれぞれの生活に順応していく速さを目の当たりにするとき、私たちは「自分がいなくなっても、この世界は一欠片も傷つかないのか」という虚しさを心の底に感じるのです。

この寂しさを埋めるために、私たちは自分の親や先祖を敬う姿を子供たちに見せようとします。自分が先祖を大切にすれば、自分が去った後も子供たちが自分を繋ぎ止めてくれるのではないか。それは、孤独な未来に対する切実な抵抗かもしれません。しかし、人の記憶に頼るだけでは、私たちの不安は根本からは消えません。人間の記憶は脆く、形あるものはいつか必ず色褪せるからです。

そこで浄土真宗が説くのが、「倶会一処」という教えです。これは、死後に仏の世界で再会する教えとよく言われますが、本当の部分ではここにはもっととても深い意味があります。「会うことは、最初から一つ処に倶にあったのだと気づくこと」このように説く方が仏様の本当の真意に適切だと思います。ご先祖さまと私たちは時間に遠く隔てられた存在ではありません。はしごや階段の段の一部のようにどこかを切り離せるものではないのです。私とは現時点でこの世に存在しないご先祖と同じようにまだ生まれてきていない子孫をつなぎとめる大切な「かすがい」であり、亡き人たちと生まれる前からともにあった存在だと気づくことが大切なのです。なので仏様の目線で見れば、亡き人とは過去に去った人ではなく、今も私たちといつでもともにいる「存在」と教えてくださっているのが「倶会一処」なのです。

私たちが法要で手を合わせるとき、亡き人は思い出の対象ではなく、私の「今の一歩」を導く力となります。あなたが亡き人を敬うとは、実はあなたが亡き人に抱かれている。この「一度も離れていなかった」という事実に気づくとき、忘れ去られる恐怖は、温かな救いへと転換されます。たとえ世間がだれかを忘れても、仏様の無限の記憶は、一人ひとりの人生のすべてを、ずっと抱きしめ続けています。そこで、私たちは亡き人と出会い直し、自分自身の本当の居場所を見出すのです。新しい一年、皆さまが一歩一歩を、独りではないという確かな安らぎとともに歩まれますよう、切に願っております。