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私ならこう言う――親鸞の言葉を現代に置き直す

新しい教義を足すページではない。親鸞が何を言おうとしたかを、南米の現場で、今の人間に届く言葉へ組み替える著者の方法を記録する。

M-01 私ならこう言う

既存の仏教の説明を読んでいると、真宗門徒であること、日本の宗教文化、仏教の言葉をすでに知っていることが前提になっている、と感じることがある。

南米で私が向き合う人々は、必ずしもそうではない。カトリックの人もいる。福音派の人もいる。別の宗教を持つ人もいる。仏教をほとんど知らない人もいる。それでも、死、悲しみ、家族、人生、別れという人間の問題は、そこにある。

だから私は、「それなら私はこう言う」というところから説明を組み立ててきた。宗派を批判するためでも、権威を否定するためでもない。届く言葉で伝えるにはどうすればよいか、という現場の実践から始まった。

M-02 親鸞の言葉を保存することと、親鸞が言おうとしたことを伝えることは同じではない

親鸞の言葉を、現代の人にそのまま提示すれば、親鸞の意図が自動的に届くわけではない。鎌倉時代の言葉には、その時代の社会、宗教、文化、言語の感覚がまとわりついている。

だから私は、「親鸞がこう言ったから、現代人もこの言葉を覚えればよい」とは考えない。考えるのは、「親鸞はなぜこう言ったのか。その言葉によって何を見ようとしていたのか」である。そのうえで、今の人間に伝えるなら、自分ならどう言うかを考える。

言葉そのものを保存することと、その言葉が担っていた意味を伝えることは、同じ作業ではない。古い仏教語を一字ずつ現代語に置き換えれば足りる、とも思っていない。その言葉が何を言おうとしていたのかを考え、その意味が今でも伝わるなら、必ずしも元の仏教用語を使う必要はない。

M-03 凡夫を特別な人間にしない

私にとって「凡夫」は、人間の中の特別な一群を指す言葉ではない。「凡夫」と「凡夫ではない人間」を分けて、誰かを分類するための語でもない。人間はすべて凡夫である、というところから考える。

したがって、「凡夫とはこういう人です」と定義して他人を仕分けることには、大きな意味を感じない。親鸞が自らを凡夫として語っていることも、この理解とつながっている。ただし、親鸞が「お前たち全員が凡夫だ」と史実として言い切った、とここで引用するつもりはない。凡夫を「あの人たち」ではなく「私たち」として扱うのは、親鸞の意図を、今の私の言葉で言い換えたときの態度である。

なお、私自身の考察として、凡夫を「物事をその一瞬の三次元的な姿だけで捉えてしまう人間」と捉えることがある。これは著者の考えであって、親鸞本人の定義として断定するものではない。用語辞典のT-12、公理A-12は、その凡夫が見捨てられない、という側を固定している。

M-04 私の思考モデル――∞と0

私が物事を考えるとき、∞と0という記号を使うことがある。数学の定理でも、数学的に成立する新理論でもない。無限と、一人の人間との関係を考えるための、私自身の思考上の記号である。

人間一人の存在を、宇宙や時間、可能性といった非常に大きなスケールから見ると、その存在は限りなく小さな一点として捉えられる。その対比を、∞と0で表している。

ただし、0に近いということは、その人が存在しない、価値がない、見捨てられる、という意味ではない。限りなく小さな一点として見える個人が、それでも阿弥陀の慈悲から除外されない、という考えにつながる。

M-05 1/∞ = 2/∞

1/∞ = 2/∞ という書き方も、同じ種類の記号である。これは数学的な等式を用いて阿弥陀の慈悲を数学的に証明するものではない。

私が表そうとしているのは、一人の人間と二人の人間とで、阿弥陀の慈悲が人間側の価値や人数に応じて分配されるわけではない、というイメージである。一人だから慈悲が少ない、二人だから慈悲が多い、という有限の資源の分け前ではない。無限の側から見れば、一人も二人も、その存在によって慈悲の量を奪い合う関係にはない。

これは世界で初めての表現でも、完全に独自の理論でもない。私はこのような記号を使って考えている、という記録である。

M-06 0 = ∞、0/∞ = 1について

0 = ∞ や 0/∞ = 1 も、計算結果として提出するものではない。人間には直接捉えきれない無限や空の側と、具体的な一人の人間との関係を考えるための記号である。

私のイメージでは、∞があり、そこから限りなく小さな一点としての0が見え、その一点が一人の具体的な人間として現れる。空という、人間の認知では直接捉えにくいものと、目の前にいる一人との関係を、今の記号で考えるためのモデルである。

仏教が 0/∞ = 1 と教えている、とは書かない。数学的に 0/∞ = 1 である、とも書かない。あくまで私自身の思考モデルである。

M-07 数式を使う理由

数式を使うのは、数学で宗教を証明するためではない。漢文、仏教用語、四字熟語、経典の文脈を知らない人にも、「昔の人が言おうとしていたことは、こういうことなのか」と直感的に届く可能性があるからである。

とりわけ技術や理系の背景を持つ人にとって、長い宗教的説明よりも、抽象的な関係を記号で示したほうが、何を言おうとしているのかを把握しやすい場合がある。

ただし、理解できることと、納得することとは別である。私がまず目指しているのは、「何を言おうとしているのか」を理解してもらうことであって、それを正しいと信じることを求めることではない。

M-08 南米での実践

この方法を特に必要としている理由の一つは、ブラジル、南米での開教の現場にある。日本では、仏教の言葉や寺院の文化について、ある程度共有された背景がある。南米では、その背景を共有しない人にも、仏教を伝える必要がある。

したがって、日本で通じる説明をポルトガル語に翻訳するだけでは足りない。その説明そのものを、文化的背景を持たない人にも理解できるところまで組み直す必要がある。私はそれを、自分なりの「翻訳」として行っている。

M-09 新しい教義を作ることが目的ではない

新しい宗派を作ろうとしているわけではない。自分の思想こそ正しい浄土真宗である、と主張するものでもない。既存の言葉をそのまま繰り返すのではなく、親鸞が何を言おうとしたかを自分で問い直し、それを今の自分の時代と場所で、自分ならどう伝えるかを実践している。

その結果として、既存の説明とは異なる言葉になることがある。しかし、それは必ずしも新しい教えを作ることを意味しない。公理モデル、用語辞典、主張台帳に書いたことも、この方法の産物である。新しいT番号を足すことではない。

私は親鸞の言葉を現代風に飾り直したいのではない。その言葉の奥にあるものを、自分の時代と場所で、もう一度人間に届く言葉にしたい。だから私は、私ならこう言う、と語っている。

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